闘ってきた彼が!

悲しいお知らせを受けました。

JarumundさんというALS患者の方に2年前、ノルウェーALS協会のセミナーに参加した時にお会いしました。
本当に本当に素敵でチャーミングな笑顔を持った方です。
なんといっても一緒にいる奥様の安定した存在感はすばらしく、私もああでありたい、と思ったお二方です。

ALSになり、呼吸器をつけてから一時期、鬱になってほんとうに苦い時期を送っていたそうです。そこから元気に復活しました。

詳しくは当時のノルウェー語語力がとうていついて行けていないので、理解しきれていませんが、その状況はアーレと同じだったので、私は一生懸命内容を奥さんに聞きました。

その後、アシスタントの人と新たな希望に満ちた日々を構築することができて、
笑顔と楽しい日々を過ごせるところまで生活の質を(QOL)を持ち上げることができました。
とても面白い映像も作って公開してくれました。

これをみて、ALSに携わる関係者や彼の周りの人がどれだけ励まされたか。

昨年はお会いできなかったけれども、昨年は、生きる讃歌のコンサートを開催し、
多額な資金集めもし、ALSの研究に役立つための資金集めもしてくれていました。

彼のがんばって立ち上がれたその姿勢を私は支持し、そしてアーレを励ましてきました。
その彼が、断念することを決められた。
私には言う言葉はありませんし、その決断を、もちろん尊重します。

日本とは全く違う環境ですね。
日本では、呼吸器をつけると、日本の安楽死の倫理観から外すことは選択肢として存在しませんし、万が一外したことで、それが同意であって、家族が外されたとしても罪にとらわれます。
でも、このことを話題にするよりも、日本の患者さんは呼吸器をつける時点で、その先に訪れる道を覚悟してそして意気揚々と生きてゆかれる道を開拓されてゆきます。

でも、これは、それだけ支えられる文化が一人一人の心に存在しているからでもあると思います。ノルウェーのように、強制はしない、共同体<個人主義が根本的な文化である国ではこうはいきません。学校に存在する運動会や文化祭というのは、まさにその結晶だとおもいます。

アーレもJarmundさんの別れの挨拶を読んでいる履歴がありました。
彼にとってはこれはとても辛いことだと思います。
これで今年で3人目。がんばって彼ら「らしさ」を持っているALSの患者たちが
どんどんと断念してゆかなくてはならない。初めの二人は、将来を思い煩い続けることはできないと、呼吸器をつけることを選ばず、寿命とされる、2,3年で亡くなられました。
それが皆今年に重なっています。総合病院のコーディネイターも簡単ではない、長く生きたい人はほとんどいない。と私に話を漏らしました。でも、私の中では沸々と煮えてくるものがあります。

たしかに、細かなことまで理解をして、そのマヒした手や首、足の動きをサポートしてゆきつつ、体調管理をしてもらうことに、またトイレの世話すらもすべて、癖をしり、どのようにすることが患者が安らぐのか、目の動き、日ごろの生活を考えて察知して先に質問をしてゆくことなどを毎日、定期的に行うことは決して簡単なことではありません。

ですが、だからこそ、素晴らしい二人三脚の生活がはじまり、人との信頼のもとに日常の範囲を自分なりに構築することができる。ただ、それはもともと社交性があり、コミュニケーションが流ちょうな人であった方のほうが、うまくゆく。
もともと口下手で、喋り下手な人はなかなかそれがうまくいかないのかもしれません。
だからそういうことをさりげなくできる介助の人が必須になってゆきます。

少人数の切り捨て、もしくはマイノリティの抑制の論理は20世紀にあらゆる角度で
人類が闘い続け、その権利を確保したと私は歴史をとらえています。 弱者を支える論理は適応される分野、国、も増え、人類一体として見守ろうという、事情が増えてきたと思います。

EUもそうだし、国連も、そういった哲学がベースにあって成り立っていると思います。
黒人運動や、民族間の対立はそういった圧力で抑制されてきた人たちのマイノリティと置かれた人たちがそれぞれが手を上げて主張した声の結果だとおもいます。

でも、患者はどうでしょうか。マイノリティだからと片づけられる対象でよいのでしょうか。
どうせ死ぬのだから、どうせ年を追うのだから、、、。ねえ。といってすむことでしょうか?

国、地域、文化によって、もしくはそこの長や地域の論理で優先されないことがどこにでもあります。
でも、患者の声が通るようになって、みんなのもとに聴えてゆくまで、
この病気は100年も前から治療できない病気として存在し続けていき、今もまだその領域の範囲です。
一分野の教授や研究だけではなく、包括的な支えがあって初めてうまくゆくALS患者の生活。
治療法もそうした仕組みの構築が欠かせない。

ALSはヨーロッパでは日本よりQOLを考慮していないようです。いろんな人の話を聞いててそういう風に私は理解しています。

日本はどうしてQOLを追求できることができるのだろう。
これは、私の中ではいろんな考えがありますが、簡単に言えば、制度とは自分たちの仕組みを改善してゆくためにあるということと、
個人より共同体の論理が強いことが作ってきた文化が作り上げた人間の心情の違いかなと
思います。日本の患者の会や、患者さん家族がたちあがり、一部の病院の先生が支持してくれるぐらいまで動きが形を実らせます。
もちろん、個人の感情を我慢で片づけるのも、良いとは思いませんが。
両極端に違うノルウェーと日本にいてここはいつも理解をするたびに考えさせられる部分です。

ノルウェーの仕組みでは、仕組みが最も配慮が行き届いている。
なので、仕組みの中で生活を営んでも支障を感じなくなる。
なぜなら、制度を変えないとならない問題がなく、そこで闘うう必要性が風土として生まれる必要があまりないのです。
そうすると、問題を聞いて話を聞いてあげる余裕があっても、その先の活動に動き、結果をもたらすのがとても難しいようです。

家族も、友人も子供たちのことやできることは手伝ってくれますが、医療制度へものを申すための陳述書を出すまでの動機はやはり風土としてもなりたちません。

アーレは、その隙間に、ひずみに落ちてしまったケースといえます。

彼は今訴えているのは、ここに介護施設から出て、ALSでも幸せに暮らして行ける、最後まで家族と共にいたいというものなんです。

ある意味Jarmundさんは、乗り越え、楽しい時を過ごされたとおもいます。お孫さんにも出会い、コンサートでチャリティイベントも開催したし、アシスタントや家族と幸せに過ごせたひと時がある。だからこそ満たされた思いがあるからこそ、ここで絶つことを覚悟に決められたのかもしれない。勝手な憶測ですが。。。

でも、涙を流してまで訴えなくてはならない痛みをずっと持ったまま座っていることも、寝ることも人はできません。アーレもつい先月そういうジレンマに入り、こらえられず、またモルフィネの増量に踏み切りました。
Jarmundさんの場合、そこで断念せざるをえない事情があったのでしょう。

アーレも同じ結末になるかもしれない?
そして今彼は痛みを散らすために相当な量のモルフィネを毎日摂取しています。

でも、彼はまだ幸せな家族との時間を過ごせていない。呼吸器をつけて延命をした意味が果たせていない。 アーレは、負けない。闘いは続きます。

 

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